何年前だろう・・私がFacebookに違和感を感じたのは。

それはインスタグラムでリア充を見せびらかすことが社会現象になるより、ずっと前のことだった。

私は本当はFacebookをやる気は全くなかった。

アイデアを試作して形にして、やり直して作り直して、またかたちにすることに明け暮れていた日々の中で

寝る時間もない中での知らない人とのやり取りは、作家のイメージを壊さない範囲内で行う仕事であって、私にとっては時間外労働だったから・・。

でも、NYのギャラリーが私のHPを無料で作ってくださることになって、その時Facebookとの連携は必須だとオーナーに言われた。

そして半ば強制的にFacebookに参入させられて感じたことは・・
たしかに良かったことも、ありがたかったことも沢山あった。

作品を見て、ワークショップに来てくれた人も多かったし、旅のグループでは世界中に旅行をした人たちとトモダチになった。

色々なオフ会があって、何回断っただろう・・。
私はそういう繋がりがとにかく好きではなく、直感的に拒否するのだ。

ボタン一個押しただけでなる、安易な「友達」には苦笑いを超えて怖さを感じたし、私自身のなかの一番冷めた部分が「すごい世界だ」と眺めていた。

こんな文章一つでトモダチになんてなれるもんか。

形だけの、トイレットペーパーより薄っぺらい繋がり。

私には無理だし、合わないと思った。

そんな中で私の繋がりは最終的には作家仲間と旅の仲間、そして仕事でからんだ人たちと、作品のファンの人達だけが残った。

するとこれは不思議で、どこか記事を上げるのがノルマの様になってくるのだ。

今日はここに行きました・・!
こんなのを見ました・・!
美味しかったです・・!

それを書くと一生懸命に感想を書いてくれる優しい人達。
上手に言葉を書ける、教養豊かな心の優しい人達。

だけど私はそんな上品な人たちの中にもある、優越感や自己顕示欲に疲れてしまった。

素敵ですね
いいご家族をお持ちでお幸せですね
素敵な奥様でお幸せですね
素敵なご主人でお幸せですね
優秀な息子さんですね
可愛いお孫さんですね
なんて可愛いお着物でしょう

お母さんに似て娘さんもなんて美人なんでしょう
お母さん譲りですね
本当に憧れてしまいます

綺麗ですね
いつかお会いしたいです

そういう言葉を書いて残されると、同じ様に日本人はお礼回りをしてしまう。

いつのまにかコメント返しをして何時間もたっている。

コメント返したら、そのコメントにまた返事。
延々続くけど仕事は全然はかどらない。

生活にその頃からラインも入り込んできて、どんどん質のいい仕事の時間が確保できなくなっていった。

そしてある日私は作品のファンになって下さり、ワークショップにまで来てくださった、某大企業の社長夫人に招かれて軽井沢の別荘に行くことになった。

この社長夫人は私を別荘に招く前に、他のFacebookの友達を沢山招待していた。
つまり私は仲間の中で一番最後に招かれたお客様だった。

毎日砂糖がけのお菓子の様に甘い言葉で褒め合ってやり取りしている人達を、実際にこの別荘に何度もお招きしていた社長夫人は、あろうことか私も知っている共通のトモダチの悪口を言い始めた。

最初はちょっとだけかな・・と思っていた私も、延々と続くその話に「これはどういうこっちゃ」と思うようになった。

毎日、だれよりも優しい言葉を書きあっているのに、本当はこんなこと思ってるんだなぁ・・・

わかっちゃいたけど泣きたくなった。

また来てね!どんどん使っていいのよ、この別荘。
ご家族も一緒にぜひどうぞ・・!!
貴女は可愛いから大好きよ。これからもずっと仲良くしましょうね。

実はその出来事の3年ほど前に、私は家の事情で作家仕事以外に外で働かなくてはならなくなった。

その時にもFacebookを見て思ったことがある。

幸せって、人に見せて共感してもらう必要があるものだろうか?
何故なら、人には色んな時期があって
世の中には、今幸福な時期の人もいれば、大変な時期の人もいるのだ。

色んな状況の人がいるのに、幸せな出来事を一方的に配信するのはもしかしたら、とても大変な人には読むのも辛いことかもしれない。

その時、とても大変な状況だった私は、Facebookの外側に出てそんなふうに感じた。

本当の幸せって人それぞれだから、その人が心の中で心底満足している、満ち足りた状態のことだと思う。

でもそういう状態って、自分の心の中のことだから人に共感してもらう必要はない気がする。

場合によっては人にわかってもらえないことだってあるだろう。

そう考えると、自分の幸せを電波で公に配信する意味はどこにあるんだろう・・?

そしてこの不毛な「お礼回りのコメント書き」の時間をもうちょっと有益な時間にできないのものなんだろうか・・?

せめてお金になるならまだマシなんじゃないかと思った私は、アフィリエイトを勉強し、文章から収益を得ることを学んでみた時期もあった。

そんなことも本当にずっと前のことだ。
私はその時期から完全にFacebookに興味を失った。

昨日、メッセージが入っていたので一年ぶりくらいにFacebookをのぞいたら、10年前からのトモダチは、まだ延々とそのやり取りとお礼参りをやっていた。

一番びっくりしたのは、まだ続けていたんだ・・!ということと、皆がみんな、年をとったということだ。

還暦を迎えたとか、孫ができたとか、色んな変化があるらしい。

でもやっぱり褒め合って、生きることや生活する心の支えにしているようだった。

ある意味これはこれで、この人たちには良かったんじゃないかな・・と思った。

年をとって歩くのがおっくうな人も、「今日はこれだけ歩いてこんな景色を見ました~!」と書いて、素晴らしいですね!お元気ですね!!いい景色ですね!!って書いてもらえれば続けられるのかもしれないし

こんな料理を作りました~!と見せれば、栄養バランスがいいですね、お料理上手ですね!って言われることで、本当は料理が面倒でも食生活をきちんとできるかもしれない。

顔写真を載せて、「若々しいですね!きれいですね!」ってほめてもらえれば美容やファッションにも前向きになれるかもしれないし、きっと全てのやる気に繋がるのだろう。

Facebookのトモダチが心の中はどうあれ、10年も同じことをやっているのを見て、驚きを超えてある種の感動も覚えたけれど、これは老人にはもってこいの、生きがいアプリなんだろうと思った。

 

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