今日は直感や感じる力は松果体からくるものだということを、しみじみと感じたことについて書いてみようと思います。
私は直感とか正しく感じる力というのは本来人間誰もに備わっていて、超能力と言われていること(予知する力、危険を察知する力、どちらが正しいかを瞬時に悟る力、精霊のささやきをメッセージとして受け取ること、生きている人とのテレパシーのやり取り、亡くなっている人からのメッセージの受け取り、自然の神の意志を知ることなど)程度までは特に能力を開発しようとしなくても、誰にでも簡単にできることだと思っています。
近代化した都会で一年中電子機器に囲まれていればその能力を使わなくなりますから、たしかに衰えてはくるでしょう。
でももともとは持っている力なので、ちょっと走る練習をすれば誰でもジョギングができるように、思い出せばたやすくできたことに自分が驚くはずです。
でも今世の中は、この持っている力を使えないようにさせています。
どのようにかというとウイルスへの不安と恐怖の洗脳によってです。
数日前、私は茨城県の袋田の滝に行ってきました。
宿についたのが夕方だったので、食事の前に夜の滝を見に行くことになりました。
私は袋田の滝を見たのは生まれて初めてでした。
最初にライトアップされた夜の袋田の滝を目前に見た時は、美しいというよりも怖さを感じました。
奥深い森林の中、山の上のほうに向かって歩いていくと真っ暗で巨大な岩の上から大量の水がなだれ落ちているのです。
幾筋も岩肌をつたわって巨大な白線のように流れ落ちている滝は、縦、横にあまりに大きすぎてカメラの枠内におさまりきれず、パノラマにしても全体像が入らない。
一体この水はどこから出てくるんだろう?とその場で調べたほど、しばらく眺めていてもどんなにその場にいても「すごい」としか言葉が出てこないような滝でした。
美しいというのとも少し違う、神仏への畏敬や怖さを感じる滝でした。
大きなつり橋があり、その入り口には人との距離を取ってとか、密を避けるとかの看板がかかっていました。
私が異様に思ったのはそこに訪れる人がほんの数名(夜や翌日の早朝に見に行ったのと、シーズンをはずれた平日なので人出がありませんでした)であちらにぽつり、こちらにぽつりという状況で、全体を見渡しても数人しかいなかったのに誰もがマスクをつけていることでした。
滝までの道を歩きながらこの土地のフィットンチッド(植物の出す殺菌物質のこと)はとてつもない量だと感じていた私は、マスクをここでする意味がわからない。
昔、肺病を患った人は田舎の療養所に送られて数年間静養したという話を知らないのでしょうか?
自然の力を馬鹿にするのもほどがある。
あまりにもあまりにも人間は馬鹿すぎる!と思いました。
空気清浄機一億個分より効果があるよ!ここに数分いるだけで細胞を全部修復してくれるよ・・
感覚の蓋を閉じられ、目を開けていても何も見えていない。
耳がついていても何も聞こえない。
東京にいる人が移動しても脳の状態はそのままスライドするのでいつもの習慣でそうなるのかとも思いますが、それはもう、どこに行っても本物は必要なくなった人を意味すると思いました。
洗脳されてしまうのは直観力がそれを止めないからです。
おかしいことをおかしいと気がつくことが、もはやできないのです。
私は人間の行く末を見たような気持ちがして本当に悲しくなりました。
ここまで馬鹿になってしまったら人間は生物として生き残る意味がないことになってしまうのでは・・?
そんなふうにも思えてしまうのです。